わたしの
セカンドキャリア

第4回就職前から計画し、成し遂げた「帰農」/荒牧公哉さん

1966年大阪生まれ。1990年に日刊スポーツ新聞社に入社し、2012年に退職。京都府船井郡京丹波町で農家民宿「荒牧家」を運営する農民。東京~京都を軽トラックで往復し、野菜を販売しながら二拠点で生活中。 荒牧公哉
大学を卒業し、47歳までの23年間、スポーツ新聞の記者として演劇やレジャー関連を担当、ダイアナ妃取材や宇都宮通信局勤務なども経験したが、インターネットの普及で新聞の価値が激減することに気づき、退職を決意。自分のために時間を使おうと考え、京都・京丹波町にある江戸時代築の古民家でもある実家を使って「農家民宿」の経営に乗り出した。奥様と子供さんは東京でそのまま暮らし、自分が東京と京都を行き来する二拠点生活を開始。その後、畑作も始め、いまは月2回、軽トラックに野菜や米を積んで東京の喫茶店店頭やお寺の境内などで販売もする。57歳。

私のライフラインチャートとこれまでの歩み

大学卒業後、スポーツ新聞の記者としてさまざまなジャンルの記事を執筆しました。47歳までの23年間、演劇やレジャー関連の記者、英ロンドンでのダイアナ妃取材や栃木県宇都宮市の通信局勤務などを歴任させていただき、主にスポーツ以外の話題を担当しました。それぞれが刺激に満ちた仕事で、充実した記者生活を過ごせたと思います。

大きな転機になったのは2000年ごろから始まったインターネットの普及です。通勤電車内でスポーツ紙を読む人が激減し、紙に文字を印刷した新聞の価値があっという間に下がっていく現実に直面しました。2011年の東日本大震災では、東北地方の一部に数か月間、新聞が配布できない事態になりました。加速度的に紙の新聞がデジタル情報に置き換わるきっかけにもなったと思います。

新聞記者の職を辞したのは、くだんの大震災から1年半後でした。新聞自体の存在感がさらに低下して賃金が下がってしまう前に、自分のために時間を使おうと考えた末の決断でした。

人生の3つの目標①お父さんになる

実は就職する前から、私には人生の目標がありました。
1つ目は「お父さんになる」

高校生の頃に自分の家庭を持つことが人生最大の目標になっていました。大学での就職活動は、自分ができることで最大限に賃金を得られそうなマスコミ就職に全力を注ぎました。
思えば、仕事一辺倒で家族との意思疎通もほとんどない自分の父親に対する反抗心の裏返しだったのかもしれません。

卒業2年後に最初の結婚をしたものの、すぐに離婚。
2度目の結婚相手となった妻との間に33歳、36歳で相次いで子供が誕生し、この目標は果たせました。いい父親になったかどうかはともかく、父親になる、という目標は達成できました。

人生の3つの目標②大家さんになる

高校卒業後に上京し、アパートを借りて住まううちに、どうすれば家賃を払う生活から脱出できるだろうかと考えていました。そこで、いずれ絶対に大家さんになろう、という目標を立てました。

その一環として、学生時代から証券会社に口座を作って株取引を始めました。ネット証券などはまだなく、店頭の電光掲示板で株価をながめてアルバイトで得た資金の投資先を模索する毎日でした。
投資家たらんとしたものですが、そのもくろみはバブル崩壊とともに泡と消えました。ほとんどが半値以下、10分の1になった銘柄もあり、投資の厳しさを実感しました。

離婚後は2万円台の風呂なしアパートで寒々と暮らし、とにかく貯蓄に励みました。再婚し長男が誕生した33歳でマンションを購入し、3年でローンを完済。
そのマンションを売却せずに2軒目の自宅を購入、晴れて「大家さん」になったことが、のちの退職後の生活に大きく寄与してくれています。

 

人生の3つの目標③母の実家の農地を継承する

そして最後の目標が「帰農」です。
母親の実家は京都北西部の山里で、1haほどの田畑を所有しています。幼少期は祖父母の暮らす実家に長期休暇のたびに行き、いずれ自分が田畑を耕作するものと決めていました。

退職後、まずは江戸時代築の古民家でもある実家を使って「農家民宿」の経営に乗り出しました。
退職金を使って民宿としての条件を満たす改築を行い、翌年には営業許可を得て開業にこぎつけました。家族は東京の家にそのまま住むこととし、私だけが東京と京都を行き来する二拠点生活を始めました。
田畑の耕作の方法は、ネットでいくらでも検索できます。近隣の方々の助力もあり、着実に収量も上がってきています。

3つのターニングポイント

日刊スポーツ記者として精力的に取材。海外出張や地方勤務も経験
自らの興味と収入が見合った仕事が面白かった時代。バブルでメディアが輝いていたころを楽しめたが、それだけにインターネットの普及でメディアの存在意義が失われていくことがつらかった。
48歳で中古の田植え機、トラクターを購入。農業倉庫を建てる
職金は江戸時代築の古民家でもある実家の改装や、耕作機械の購買に費やした。48歳、田植え機を購入してご満悦な表情。
京都から軽トラックで運んだ野菜を駒込/高輪/川崎/横浜で販売中
現在は月2回ほど、東京に出かけてカフェや寺の境内で野菜を販売している。常連がつき、自分が作った野菜へのダイレクトな反応があることがうれしい。今後は農家民宿をさらに使いやすくするとともに、定年のない生活を楽しみたい。

満足度70%
毎月2回、軽トラックに野菜や米を積んで東京~京都を行き来し、喫茶店の店頭やお寺の境内などで販売しています。経費節約のため国道を使う片道14時間の旅にも慣れてきました。

今後のわたし

誤算だったのは、コロナによる行動制限以降、農家民宿が開店休業状態に陥った事です。来客数は、最盛期の2018年と比べて1割以下まで低迷しています。家賃を払って物件を借りているわけではないためお客さんがゼロでも耐えられますが、なかなか厳しい状況です。そこで「大家さん」になっていたことが幸いしました。マンションの家賃収入が現在も入るため、つましく暮らす分には過不足ない収入を得られています。

 

また、コロナ蔓延前までは関西の地方自治体で発行する地域振興のための冊子などの取材、編集作業をやったり、地方新聞社のウェブサイトの記事を執筆したりしていました。新聞社の社員と一番違うのは交通費の扱いです。満額出るわけではありません。自腹で行動する覚悟があればさまざまな媒体に記事を提供することもできると思いますが、そこまでの余裕はないため、外出制限がかかると同時にすべての取材、記事執筆作業から撤退しました。

 

農家民宿ですが、お客さんがいない間に庭の柴小屋を改築して薪ストーブ式のサウナルームを作ったり、新しいテーブルを導入したり、少しずつグレードアップを図っています。趣味の一環ですね。次は厨房を新たに作ることが目標です。

 

定年のない仕事ですので、まだまだ京都の山里と東京を軽トラックで行き来する生活を続けて行こうと考えています。

編集部より

私も荒牧さんと同じようにメディアの仕事をしていたので、インターネットの普及と活字離れで、メディアの在り方が根本から変わっていったことは当時、ひしひしと感じました。
結局私は社に残りながら、活字ビジネスではない事業を模索しましたが、荒牧さんはスパッと辞め、第二の人生に乗り出したわけです。

若いころからの夢の実現を目指しながらも、それまでにマンション収入の確保や日々の暮らしの管理など、現実的な基礎をきっちりと築いてきたことが、荒牧さんの決断を下支えしたと思います。家族が東京に残りながら応援してくれているのも精神的には大きいでしょう。地方だけに依存せず、東京とかかわりをもちながら暮らすというところが、彼の上手な選択だったと思います。

「お客さんがいない間に庭の柴小屋を改築して薪ストーブ式のサウナルームを作ったり、新しいテーブルを導入したり、少しずつグレードアップを図っています。趣味の一環ですけどね」という荒牧さんの言葉に、現在の充実ぶりが表れています。私も荒牧さんの野菜はずいぶんいただいていますが、とても美味しいですよ。

ただ、次の自分を考えたいが1人では難しい…という方は、よろしければご一緒に!こちらで定期的に開催しています

 

次のじぶんProject プロジェクト 編集アドバイザー柏原光太郎