リアル移住物語

「北海道で暮らす!」そう決めたときから始まった 私のセカンドキャリア、セカンドステージ

北海道科学大学 未来デザイン学部 教授 高村 茂さん(65歳)
1956年、会社員の父と専業主婦の母のもと、岐阜県に生まれる。大学進学に際して、高村さん曰く「内弁慶的」な岐阜の風土から離れたいと東京へ行くことを決断。一人っ子長男にもかかわらず、何も言わず東京に送り出してくれた両親には感謝。1984年大学院修了後、都市計画・環境コンサルティング会社に就職。さらに広いフィールドで仕事をしたいと1990年日本総合研究所に転職し、コンサルタントとして20年以上のキャリアを積み重ねる。2012年55才の時、「第一線で仕事をし続けたい」と富士通総研へ転職。管理職として活躍しながら、2017年北海道に移住。2年間のリモートワークののち、北海道に腰を据えるため2019年富士通総研を退職。前職での経験をもとにコンサルティング会社を起こすも、うまくいかず事業継続を断念。2020年北海道科学大学に教授職を得、北海道の若者の未来のために奮闘中。

「セカンドキャリア」は、これまで生きてきた人生のその先を、自ら作り出していくプロセス。ファーストキャリアのようなレールはありません。これまでの自分の経験と、ネットワークと、夢と志、使命感・・・様々な思いを胸に、自分らしいレールを自分で作っていく。だから100人いれば100通りの「セカンドキャリア」の軌跡=物語があります。
リアル移住物語の第1話は、たまたま新聞で見たスウェーデンヒルズ*の東京説明会への参加をきっかけに、2年後には、東京の会社に勤務しながら北海道に移住。当時、前例があまりなかったリモートワークへの挑戦から始まった高村茂さんの軌跡です。それは「非連続」がもたらした新たな役割獲得の物語でした。
「おまえはまだ、自分の役割を果たしていないだろう? それをするにはこっちの道だよ!」そんな心の声に導かれて、今、北海道にいるような気がします・・・

*スウェーデンの住まいをモデルにした北海道当別町にある住宅

 

まずは高村さんの移住物語を4コマ漫画でご覧ください!

 

3つの出来事

この町に家を建てて、妻と一緒に住みたい!
新聞広告でみたスウェーデンヒルズの説明会に参加したことがきっかけでスタートした北海道移住でした。この街並みに心惹かれたのです。
会社初の管理職リモートワークで、長時間労働に
2017年、移住の相談を上司にしたところ「じゃあリモートワークの実験をしてみないか?」と言われ東京と北海道の2拠点生活がスタート。ところが…なんともハードワークが続きます。
独立したが、厳しい現実が待っていた
体力気力の限界と2019年5月会社を退職し、コンサルティングの仕事をやるための個人事務所を開設。しかし…東京と北海道はマーケットが全く違っていました。

「北海道に家を建て、移住する!」という決断からはじまったセカンドキャリア

新聞広告でみたスウェーデンヒルズの説明会に参加し、2年後には北海道に家を建てていたという高村さん。「当時住んでいたのは、東京の練馬。花粉症もつらい、夏は暑い、人口密度も高い。子どもたちも成長した。このまま練馬に住み続ける理由はない」と考え、夏と冬季節を変えての宿泊体験もして、北海道への移住を決意。会社には家を建て始めてから相談したという。「自分は北海道に移住するが仕事はどうしたらいいか」と。2017年、まだリモートワークが一般的でなかった時代、移住先の北海道からリモートワークで東京の会社での勤務を継続することになった。
もともと必要があれば、ルールは変えていけばいいと思ってきた高村さん。子育て中、平日に開催されることが多かった子どもの学校行事にも、仕事を調整して必ず参加してきたという。「その分、夜仕事をやることもありました。やらなければならないことはちゃんとやりますよ。だから文句は言わせない。睡眠時間は4時間くらいでしたけどね」と笑う。新しいルールを作りながらの北海道での暮らしと東京での仕事の両立生活が始まった。

 

週1で東京へ日帰り出張、北海道でのリモートワークのほうが長時間労働に。


自宅前にて

2017年の年末、北海道への引っ越しと同時に始まったリモートワーク。子どもの学校行事に参加するために、会社の常識やルールを変えてきた高村さん。リモートワークをするなかでも、責任者の押印業務は、部下に権限移譲するなど、いろいろルールを変えていった。しかしながら、当時は、クライアントとの打ち合わせの場に責任者が顔を出さないわけにはいかなかったという。朝一番の飛行機に乗り東京へ。最終便で帰宅すると日付は変わっているという生活。年度末3か月の出張回数が40回。週に1回は北海道と東京間を往復する生活が1年半続いた。
「今だったら、テレワークも一般的になっているので、もっと楽だったと思いますね」と語る高村さん。東京にいるときより長時間労働になった。しかし、会社には長時間仕事をしていることが伝わらない。徐々に疲労感が積み重なっていったという。
2019年5月、北海道と東京を往復する生活に見切りをつけ、北海道の地に腰を据えて仕事をしようと退職。コンサルティングの仕事をやるための個人事務所を開設した。

 

30年間のシンクタンクでの経験は北海道では役に立たなかった。

人との関係性を大事にしてきた高村さんは人脈も広い。コンサル時代に培った人脈から、北海道でのクライアントを紹介してもらい、提案書を作成し、営業活動をしてまわった。「30年間のシンクタンクでの経験や実績があれば、仕事はなんとかなると思っていたんですよね。でも、北海道はそもそもマーケットが小さい。札幌は支店機能ばかり。コンサルティングの仕事は東京本社が決めるから北海道では仕事が取れない。北海道の自治体はコンサルティング会社に委託するより、自分たちでやることを選ぶ。予算がないという理由でね。東京では見えていなかったことが、北海道に腰を据えて初めていろいろ見えてきました」と客観的に振り返る高村さん。北海道に腰を据え、自分ひとりで営業する中で見えてきた北海道の現実、現状。営業活動はすれども、仕事には結びつかず。「貯金を食いつぶす日々に、さすがに先行きが不安になってきました」と話す。
唯一登録していたJREC-IN*(研究職のキャリア支援サイト)で紹介されていた北海道科学大学の教授職の公募に応募。2020年から経営学の教員となった。

 

教員・・・実はすごくやりたかった仕事だったのではないかと今は思う。


トラピスチヌ修道院にて

シンクタンクの研究員のキャリアパスとして、「大学の教員」はよくある話だというが、高村さんは年齢的なこともあり、選択肢として全く考えてはいなかったそうだ。コンサルティングの仕事を続けようと起業して、うまくいかずにたどり着いた大学の教員というセカンドキャリア。今の仕事の契約は1年更新。高村さんは、大学でも「言いたいことは言う」というポリシーを貫いているという。異色の経歴、多面的な視点から繰り出される大学側への積極的な提言は、コンサルティング魂のなせる業か、あるいは前例や常識を疑う変革者のなせる業か。教員に採用されたときの専門は「経営学」、21年度からは「社会学」も担当しているという。
「就職先は地元か札幌、東京はもちろん海外へ出ようという志向のない学生たちに、自分が仕事で経験してきた東京や海外の話をするんです。伝えたいことはたくさんあります。学生たちにもっともっと広い世界を見てほしい。逆に学生から刺激をもらうこともあります。むしろこっちがたくさん学びたいと思うくらい。昨年度から社会学も担当し、新たな気づきが得られるからその勉強も楽しい。給料より刺激がほしいです。」と楽しそうに語る高村さんの表情はイキイキとしている。

満足度80%
最近の温暖化進行で北海道も暑い日が増えて、-10%
まだ理解できない(できそうもない)北海道慣習があって、-10%

ほめられたことのなかった妻から、「今が一番前向きね」と言われた。

高村さんは、外国人が日本に学びに来られるしくみを北海道でつくりたいと考え始めているという。「北海道の若者が海外に行かないなら、来てもらう。地元愛だけで凝り固まるのではなく、もっと世界にむけて開けた地域にしていきたいのです」。
内弁慶的と表現したふるさと岐阜から飛び出してきた高村さんが、東京での一仕事を終え、次の暮らしの場所として選んだ北海道で、若者たちのため国際化に尽力したいと熱く語る。
「おまえはまだ、自分の役割を果たしていないだろう。それを実行するにはこっちの道へという声に導かれて、ここにいるような気がします」と語る高村さんのセカンドキャリアは、まだまだ始まったばかり。

 

Writer’s Eye

高村さんが移住した当別町のスウェーデンヒルズは、東京、名古屋、大阪と本州の大都市からの移住者が多い街だと言います。移住前、高村さんは、その街で、東京での経験をもとに多少の仕事をしつつ、多様で開放的なコミュニティーの一員として、大自然と親しみながら、自分らしいセカンドステージを送ることを夢見ていたのでしょうか。もちろん、大自然と親しむ豊かな時間や、気持ちの良い隣人たちとの交流は、実際に手にしたことでしょう。
誤算だったのは、高村さんには、やり残していた仕事があったということ。ふるさとで感じていた「排他的、閉塞的、チャレンジ精神のなさ」、職場で感じていた「暗黙のルール、古いしくみや制度の無意味さ」・・・・・そういうものは打ち破ってもいい、新しいルールをつくればいいと生きていた高村さんでなければ、やれない仕事が、北海道にありました。
その仕事とは、北海道に海外の青年たちが集まり、日本の若者たちとともに学びあう場所と機会をつくること。その場所と機会は、大学かもしれません、国際会議かもしれません、フェスティバルかもしれません。それは、一時的でも、一過性でもなく、北海道の地に根付き、その場所と機会と、そこで刺激をうけた若者たちが、新しい文化と風土を作っていくことでしょう。

編集後記

住む場所を変える、仕事を変える・・・・思い切って「非連続」な状況に自分を放り込むことは、次のステージへの一歩の踏み出しになる。そして、浮上するまでの試行錯誤の中に、セカンドキャリアの扉がある!ということを学んだ取材でした。

執筆者:荒川悦子(取材・文)
ライター
教育関連企業に勤続40年。育児関連の編集者をつとめたあと、人財開発部に勤務。ワーキングマザー歴30年、ワーキンググランドマザー歴1年。まだ始まったばかり。
50歳を過ぎてから消費生活アドバイザーとキャリアコンサルタントの国家資格を取得。これに健康管理士の資格を加えて、「仕事・生活・健康研究所」の看板を掲げることを妄想中。一足先に60歳で定年退職した夫と二人暮らし。近場と遠方に娘が二人孫二人。趣味は山歩きと水泳。