わたしの
セカンドキャリア
第13回 会社経営破綻後のリストラ役の辛い経験をバネに 脱サラして新しい仕事を楽しむ/東後直子さん
バブルの時期に日本航空に入社。
長崎で大学まで育ち、日本航空に客室乗務員として入社しました。
当時はバブル、地方から来た私にとって東京で見聞きすることはすべてとても楽しく、客室乗務員として充実した時代をおくりました。
JALは客室乗務員と一般業務を交代で担当する伝統があったので、広報部で社内報の編集や社内外へのPR活動を担当したり、客室訓練部では国内や香港、ロンドンでの新⼈を訓練、商品サービス企画部では機内⾷の企画や、チャーター機を使った企画を策定したりしました。
ANAのクリュッグに対抗してファーストクラスのシャンパーニュをサロンにしたのもいい思い出です。こうした経験を積んでいるうちに、JALが外からどう見られているか実感したのもこのころです。
私のライフラインチャート
経営破綻でリストラ面談を経験してタイへ
2009年に管理職に昇格。⽻⽥第⼆客室乗員部マネジャーとして部下70名の育成・管理に携わっていたときに、まさかの経営破綻を経験しました。
早期退職の募集などもあり、大変なことはわかっていましたが、まさか破綻するとはというのが正直なところでした。
いま考えると、商品サービス企画部で機内食の見直しをしたり、機内搭載グッズの削減を行ったのはそうした前兆だったのでしょう。当時はわかりませんでしたが、とにかくキャッシュがなかったのでしょうね。
破綻が決まってからの社内は「辞めるも地獄、残るも地獄」状態でした。私はリストラ⾯談をする立場で、昨日まで一緒に働いていた仲間に「あなたに活躍する場を与えられないかもしれません」と告げるのは本当に辛い経験でした。サラリーマンの悲哀を味わいましたし、私自身もどうしようかと考えましたが、2012年にバンコク⽀店客室乗員セクションに配属されました。ジャルウェイズというリゾート向け格安定期便航空会社をJALと統合するため、シニアダイレクターとして400名以上のタイ⼈乗務員の採⽤、教育に携わりました。
私としてはリストラにかかわったことから、いつかは私もJALを去るのかもしれないと思いはじめたのもこの頃です。自分はJALの「The乗務員」ではなかったなという思いと、サラリーマンは哀しいなという思いから、2015年にバンコクでの3年の任期を終え帰国するときに退職を決断。本社に戻ることなく、辞めました。
タイでのご縁で見つけたライフワーク
退職後になにかあてがあったわけではなかったのですが、タイ時代の友人から「タイ人を日本に連れていくツアーの企画をしないか」と誘われ、グルメツアーの企画を始めました。
対象はタイ人の富裕層で、有名レストランや食体験を楽しむための旅程を決める仕事です。一週間で300万円以上使うツアーもあります。また、その関係から高級牛肉卸売業に携わったりもしました。
いまは機内のアメニティを作る会社に所属し、アメニティの企画・営業の仕事と、ツアー企画の仕事を主にしています。サラリーマンだったころはこんな仕事をしているとは思いませんでしたが、当時とくらべると世界は格段に広がり「あのころは、なんであんなに縛られていたんだろう」と思っています。
3つのターニングポイント
今後のわたし
経営破綻がなければ私はいまもJALにいたかもしれませんが、いまの仕事にはとても満足しています。
辛い経験もふくめてJALでやってきたことが、すべていまにつながっていると感じています。
タイ人の陽気さに触れ、海外では「いやなことはやめればいい」という気持ちが当たり前だと知って、人生が楽になりました。壮大なことを見つける必要はなく、気楽に考えればいいといまは思っています。それは、いまの生活が私にとって快適だからかもしれません。
編集部より
バブルの時期に日本航空のCAという華やかに見える仕事に就かれた東後さんですが、会社破綻でリストラを言い渡す担当となり、そこから自分を模索する人生が始まったと聞きました。
しかし、その後のタイ駐在の経験を活かし、食に関するライフワークと言える仕事を見つけるまでの話を聞くと「人間到る処青山有り」という言葉を思い出します。
学びを続けているとどこかできっかけは生まれるものですね。
次のじぶんProject 編集アドバイザー 柏原光太郎