わたしの
セカンドキャリア

第9回 コロナ禍で衝動的に辞めてから軽井沢でカフェを開くまで/山北太一さん

KARIYADO CAFÉ 店主 山北太一
社会人は「商工美術」というウインドウディスプレイやイベントや店舗の装飾デザイン施工会社でスタート。約5年勤め、20代後半に広告代理店の電通とアメリカのYoung & Rubicam社の共同出資会社「電通ヤング・アンド・ルビカム(略称DYR)」に転職。営業職を15年程経験し、営業部長、営業局長、メディア局長などを経て執行役員。2018年にYoung & Rubicam社が日本から撤退したため「DYR」は消滅し、社員は電通東日本に吸収。2020年11月末に退職。準備期間を経て2022年3月に飲食店のKARIYADO CAFÉを軽井沢町借宿エリアにOPEN。

社会人スタートで芽生えた何やら根拠のない自信

最初に勤めた商工美術株式会社は「銀座WAKO」のウインドウディスプレイの指定業者で、ディスプレイデザイン賞を何度も受賞するアイデアに満ちた会社でした。

私は運よく希望のWAKOチームに配属されました。しかし、クライアントとの模様替えコンセプトミーティングはさながら禅問答の様相で、会話の多くについていけず、自分の浅慮にあきれたことを覚えています。

同じ銀座四丁目交差点という理由で、はす向かいの日産銀座ギャラリーも同時に担当、日産モーターショー事務局担当も兼務になりました。
あの当時、破竹の勢いだった日産自動車の、しかも世界最大イベントであったモーターショーに関われた経験は何やら根拠のない自信を生みました。
また、そのコンセプトワークに於ける大胆なアイデアブレストは刺激的であり、企業のコミュニケーション活動をもっと上位概念でプランニングしてみたいという獏とした気持ちが芽生えました。

 

 

社会生活後半に感じた無気力の正体

人的な関係で電通ヤング・アンド・ルビカムへ転職したのは1990年。
転職したいという気持ちのアンテナを張っていなければスッと通り過ぎるだけのお話しだったような気がします。

当時の電通ヤング・アンド・ルビカムは優秀なコミュニケーションプランナー集団であり、社員同士仲良く、しかし時にはアイデアの甘さを遠慮なく指摘し、刺激し合う事のできる素晴らしい社風でした。

特にヤング・アンド・ルビカムには「Resist the Usual(常識を覆せ)」というプランニングに向き合う行動規範があって、あらゆる場面で妥協に傾く自分の弱さを「もっとアイデア昇華できるはずでは?」と律してくれました。

さまざまなクライアントのコミュニケーション課題に向き合う毎日は充実し、入社約20年これといった大志も抱かずサラリーマンとして、社のヒエラルキー上位をたんたんと目指す日々が続いたように思います。徐々に苦手なマネージメント業務が増え、面白かったプランニング現場に携わる事が減っていったのは若干不本意でしたが、肩書はいくつかのセクションの局長抜擢を経て執行役員にも昇格出来ました。サラリーマン生活のピークでした。

しかし数年後、社は外資の撤退もあって解散となり、社員は電通グループの別会社に吸収されました。この時50代半ばを過ぎ私は2回目の転職になりました。
若い力を伸ばそうという社会全体の機運もあり、転職先から老兵に期待を感じる事はありませんでした。大きな扱いを握ってはいたので、いつもなら思う「一花咲かしてやるぞ」というしぶとさもなぜかまったく湧きませんでした。

この無気力の正体を俯瞰してみて、今までのサラリーマン人生で自分を支えていたのはただただ承認欲求だったのかもしれないなとぼんやり思いました。今後はその欲求を満たされそうもない環境なので無気力になっている自分が透けてみえて、自分でもあきれました。

しかし気持ちをすっぱり切り替え、むしろ全く別の人生を送る絶好の機会と見立てることとし、真剣にセカンドライフ模索が始まりました。
不思議なことに、そう時を経ずに希望早期退職プラン提案(ERP)あって、まさに渡りに船、後先考えずに退職したのです。57歳と半年でした。

 

 

軽井沢で飲食店を始めてみようと思ったきっかけ

運よく会社都合で辞められた形だったので、失業保険も受けられました。

その間、ありがたい事に転職のお声をいくつかいただきましたが、成就しないまま時が過ぎました。
といっても、なにをしたいかという具体的な意識はなかったのですが、ある日軽井沢エリア近辺でセカンドハウスの不動産巡りをしていた時に、軽井沢の閑静な借宿エリアで素敵な物件と出会いました。一目ぼれでした。ひとけはないけれど、ここで飲食店を始めてみたいと願望が湧き、起業に踏み切ったのです。

小学生だった頃に、起業していた父の事業がなんとか軌道に乗り、軽井沢に別荘のあるプチ贅沢な生活スタイルが始まりました。それから半世紀以上経ち、別荘を手放したり、ほかの場所をのぞいたりもしたのですが、やはり子供のころから知っていて、自然豊かでおしゃれなお店も多い軽井沢への移住は、ずいぶん前から機会があればと温めていました。

軽井沢の冬場は閑散としていましたが、近年は一年を通して町に人が居ます。新幹線での利便性や、自然と都会要素のバランスのよさ、昨今の2拠点暮らしブームにはまって、ちょっとしたバブル景気。また旧軽井沢や一部の駅近辺を除けば地価は東京の1/5以下なのに富裕層が多いという気づきもあり、高いポテンシャルを感じたうえでの起業でした。

しかし、考えることと行うことは違うもの。なかなか考えていた起業と現実は違うと気づいて1年経ちます。

3つのターニングポイント

バルの代打営業で飲食業の楽しさを知る
30代半ば、知り合いの奥様が営む小さなバルが実家から徒歩10分のところにあって、よく通っていました。軽い話の流れで土日の定休日にお店を借りて代打営業することになったのですが、料理が趣味だったので、足掛け5年もバル運営をやりました。店はクライアントや仕事を通じた仲間で連日満員でしたし、時々ふらっと一見さんが入ってきて「おいしかったです」なんてお言葉をいただけると、これまで経験したことのない嬉しさが沸き上がりました。デスクワークと会議漬けだった自分にとって汗だくで働く店での経験はとても刺激的で楽しいものでした。その頃からいつか自分も飲食店をやってみたいなと獏と思っていたように思います。
外食産業の創業者から教えられた金言
DYRで最初に担当したクライアントはFC1000店を超える外食産業の大きな会社でした。「人通りの多い恵まれた土地は労せずともお客様が立ち寄るが、そうなると店が甘えてくる。逆に二等地で営むと、呼び込むのに苦労はするが、絶対に満足させてリピートさせたいというモチベーションが湧き、顧客満足を常に哲学する体質が店に出来る。そういうお店は強いよね」という創業者の言葉を直接聞く恵まれた経験がありました。四半世紀経ち、気に入った借宿エリアの物件が人通りの無い奥まった住宅街であったことに運命的な示唆を感じました。
軽井沢での運命的出会い
退職したのはコロナが始まってしばらくのころでした。父の別荘は15年ほど前に売却したのですが、その後やはり2拠点生活へのあこがれがあり、次は那須に買いました。ところが東北大震災でこれも売却し、8年ほど前に軽井沢の隣町の御代田に家を買っていました。コロナでリモート生活が多くなったせいで御代田にいることが多く、その勢いで辞めたため、ぼんやりと一年ほどゴルフをして過ごしていました。東京にも家はあったのと、企業からお誘いもあったので、どうしようかと悩んではいたのですが、そこに運命的な出会いというべき、KARIYADO CAFÉのある借宿地区の不動産と出会ったのです。
満足度50%
ワンちゃんOKをPRしてから話題の店に
不満なところはやはり、経営状況です。現在妻と二人、時々親族の手伝いといった正に「さんちゃん運営」で人を雇うリスクを避けていますが、それでも思っていた以上に諸経費が圧迫してきます。飲食店は単店舗で儲けを目論んでも皮算用に終わる事が多いと聞いていましたが、その実態を学びました。その状況からの打開を企てていますが、日々の運営に追われて疲労し、集中力が途切れるのが課題です。起業は若いほど良いなと実感しております。
そのひとつで、ワンちゃんOKをPRするようにしています。私は愛犬家です。軽井沢で過ごすときにはいつもペット同伴可の飲食店が少ないと感じていましたので、わんちゃんOKで運営したところ、好調になってきました。ワンちゃん連れのお客様はSNS投稿にも積極的で、ペイド広告は一切やらずともオーガニックの口コミで拡散していただいています。Googleさんには一時軽井沢で一番話題のお店ですとお褒めいただき、このブランド価値を広げていけば、商いの幅を広げられる可能性があるかなと期待しております。
そのあたりをもっと伸ばしたいと思い、いまのところ50%です。

今後のわたし

昔から人に迷惑をかけながらも我を通して生きてきたことへの贖罪の気持ちが、年齢と共に大きくなっています。
でも、利他を行いたくとも自利が達成できず、余裕のない毎日に忙殺されています。子ども食堂など、あまり無理なく地域や社会に貢献できる事がないだろうかと勉強中です。

また、妻は当初軽井沢での起業に反対でした。東京での仕事も軌道にのっていた妻を強引に連れて我を通しています。最終的に移って良かったと心から思ってもらえる事が自分にとっての最大の目標です。

現状お店は夫婦で働く場所ですが、早くチームで働く場所に昇華させ、やがて魅力的なコミュニティに発展していくといいなと夢見ております。
そのときは、自分が我を通すのではなく、妻を中心としたチームにお任せしようと思います。

編集部より

山北さんとは同世代なので、広告代理店で活躍されていた時代の雰囲気は、私も手に取るようにわかります。
彼がKARIYADO CAFÉを始められてから、いくつかの偶然があっての出会いなのですが、素人が始めたカフェとは思えぬ落ち着きのあるたたずまいで、これなら地元にも別荘族にも溶け込めるなと思いました。
まだまだ大変だとおっしゃっていますが、軽井沢の特性はおわかりの上なので、それもある程度は織り込み済みでしょう。
人生100年時代において、趣味だけでは生きていけないことをよくわかっていらっしゃると感じました。
そうそう、KARIYADO CAFÉは、インスタの写真が素敵なので、ぜひご覧ください。 https://www.instagram.com/kariyado_cafe/

次のじぶんProject 編集アドバイザー 柏原光太郎