わたしの
セカンドキャリア
第12回 TBSで番組制作をしながら芽生えた地方への思いを 公募で選ばれた氷見市副市長として現場に生かす/篠田伸二さん
サラリーマンを辞めて作った映画がコロナで白紙に
大学で上京して、卒業後、T B Sに入社。主にノンフィクションのプロデューサーとして多くの番組制作にわずさわりました。会社生活の後半は、私の師匠ともいえる「あしなが育英会」創始者である玉井義臣さんの想いを形にしようと映画制作を並行しており、それをどうやって仕上げるかを悩んでいました。居心地のいい会社ですし、サラリーにも不満はなかったのですが、玉井さんから、その映画を「ある日時までに仕上げてほしい」と依頼され、それなら悔いのないかたちで作りあげようと思ったのです。
2016年に会社を早期退職し、作品づくりに一年、映画館に上映してもらうための活動に一年をかけ、2018年秋にようやく上映が始まりました。「シンプルギフト」という、アフリカ・ウガンダの孤児たちが東北の津波遺児とともにN Yブロードウェイで舞台に立つまでを描いた作品でした。メッセージ性の強い映画だったので、英語版やフランス語版も制作し、海外の映画祭も巡りました。フランス・パリで開催された「欧州アフリカ映画祭」に招待され、オープニング上映作品に選ばれるという栄誉も戴きました。また、学校上映もずいぶん実現できました。2020年春からも全国の多くのホールや学校で上映が予定されていたのですが、転機になったのは、上映計画のすべてがコロナで白紙になったことからです。
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私のライフラインチャート(クリックで拡大)
Facebook広告で偶然見た氷見市副市長公募広告が運命を変える
そんなときにFacebookの広告で氷見市副市長の公募があることを知りました。実は地方でいつか仕事をという思いは40代からひそかにありました。私は地方出身だったので、これまで自分が蓄積してきたスペックを活用して、いつかは地方に貢献したいとの思いで、少しずつ情報も集めていました。さらに言えば、自分は映像クリエーターであるより、むしろ人様の力になる仕事がしたかったのだという思いに少しずつ気づいてきた。そんなときに、これだ!と思える情報が、棚からぼた餅のように落っこちてきたわけです。
ただ、当時は富山県も氷見市のこともなにも知らず、寒ブリで有名なことすら初めて知ったくらいです。しかし、氷見市を知れば知るほど、いいものがたくさんあるのに、それを伝えきれていない。私は30年以上、「伝える」仕事をやってきた。伝えることで世の中が変わる瞬間を幾度も経験してきました。そのアプローチで氷見市民にも貢献できるのでは、と思ったのでした。
*enジャパンにて公募
妻には内定が出てからLINEで報告
いまは毎月一度、地元のテレビ番組をつくり、氷見市の美点と課題を毎回伝えています。私のような氷見市にゆかりのない人間が突然来たことで、市民も市職員も最初は構えていたかもしれません。しかし、一つずつ言葉を積み重ねていくことで理解をしていただけたのではないかと思っています。
私の妻は女優をしていますが(紺野美沙子さん)、彼女には副市長内定が出て初めてLINEで報告しました。当初は驚いてましたが、現在妻も氷見市と東京の2拠点生活をエンジョイし、今では氷見市の良き応援者にもなってくれています。
テレビ局で経験してきたことと地方行政は仕事へのアプローチがまったく違うという人がいますが、私は途中までは似ているところがあると思っています。課題が見つかったときには、原因を徹底取材し、情報をできる限り集め、編集していく。このプロセスは行政もメディアも同じです。それをどう落とし込むか、フィニッシュの形が違うだけだと私は思ってやってきたので、さほど違和感なく今日までやってきています。行政には特有の言語や作法、物事の進め方が存在し、それに慣れるまでには一定の時間がかかりましたが。
3つのターニングポイント
今後のわたし
副市長という立場を4年間続けましたが、政治的野心はありません。富山県の人口44000人の町をもっともっと素敵なまちにしたい、市民の総幸福量をふやしたい、純粋にそう思っています。せっかくご縁ができたのだから、富山県にももっと貢献したい。こういう仕事に関わったからこそ、地域でも役に立てる役割が色々あることを学びました。
そうした役割が終わったとしたら、どういう人生をいくか。経済的にはミニマムでいい。そのかわり何か人の力になれる仕事をやり続けたい。
今後も氷見市には拠点を持ちながら、ほかにも拠点を持つ「多拠点生活」をしながら、さまざまな場所にまちを変えていく“渦“をつくるのも悪くない。困っているところならどこにでも出かけていく。スーパーボランティアと呼ばれる尾畠春夫さんがいらっしゃいますが、私も彼のような生き方に少々憧れがあります。
「他者のために、他者とともに」という母校上智大学の建学精神がありますが、今この年齢になってようやくこの言葉の意味と意義が身に沁みています。
編集部より
今回のインタビューは2023年末、令和6年能登半島地震が起きる前に行われたものです。氷見市は震度5強の地震に襲われ、家屋倒壊、道路陥没&変形に伴う通行止め、物流の停滞、水道管破裂など、甚大な被害を受けました。そのなかで、篠田副市長は大変重要な役割を果たされています。このインタビューを読むと、地震で必要なことやものを取材し、情報を集め、編集し、市民のために結果を出すというプロセスは、篠田さんがTBS時代に経験してきたことを行政に実践されていることなのがわかります。お目にかかる前は、表舞台をずっと歩いていらっしゃる方だと思っていましたが、お話を聞くとさまざまな苦労を重ねられており、それがすべていまの篠田さんのこやしになっていることがわかりました。必要のない経験はない、ということですね。
次のじぶんProject 編集アドバイザー 柏原光太郎