わたしの
セカンドキャリア
第11回 水産専門商社で得た経験を地元の発展のために生かそうと起業/森丘貴宏さん
大学卒業後、ケニアへ。漁業指導とは名ばかり現地での交流がその後の経験に役立った。
バブル景気直前の1985年、東海大学海洋学部水産学科を卒業し、その後、高校時代の恩師に話を聞き感銘を受けてからずっと目標にしていた青年海外協力隊に参加。翌1986年、ケニアに漁業隊員として着任しました。
ケニアはインド洋に面した国ですが、私は首都ナイロビから海とは反対に約340km、ビクトリア湖のほとりにあるキスムという町の水産局に派遣され、ティラピアやナイルパーチなど淡水魚の漁業指導にかかわりました。
とはいっても、大学を出たばかりの若造がなにかできるわけではなく、逆に漁のやり方を教わりながら、英語やスワヒリ語、さらに部族語を学び、生活習慣や価値観の違いといった文化に触れながら、日常を通じて得た教訓と、現地の人たちとの多くの交流が、私の活動を支えてくれました。今も心から感謝しています。
1989年、3年の任期を終え帰国。日本は元号が昭和から平成に、世の中はかなり変化してほぼ浦島太郎。
漁船の乗組員をはじめ、数社に勤めはしたもののどこも長続きせず、転職を繰り返しながら、日本に馴染むためのリハビリの日々。心配した父親が知人を通じ紹介して貰った、漁網メーカー「ニチモウ株式会社(旧・日本漁網船具株式会社)」の採用試験を受けたものの見事に落ち、なんとか子会社に入社できました。
私のライフラインチャート
水産物輸入で絶好調だったが、自分を見失い窓際部門へ。その後、復活するのだが…
ちょうどそのころ結婚も決まり、生活も落ち着きを取り戻していたのですが、しばらくして以前不採用になったニチモウから、中途採用募集があるのでもう一度受けないかと言われ、今度は正社員として採用されました。今思えば運が良かったとしか言いようがありません。ケニアから帰国して3年、1992年のことです。ニチモウは歴史ある漁網メーカーで、そこから発展し、200海里規制以降は漁業中心のビジネスから、貿易に力を入れ水産物の輸入を強化していました。私は、当時社内の花形・食品部門に配属され、ロシアから買い付けたタラバガニを、スーパー向けに販売する仕事を入社早々任されたのですが、これがいきなりの大成功。会社に多少なりとも貢献することができました。
その後、ニュージーランドなどからマダイ、カンパチ、ホキ(白身魚フライの原料)などの輸入を担当。それなりの成果を上げると、1999年に営業の現場から人事チームに異動。2000年には社長直轄の組織改革プロジェクトに抜擢されました。
しかし、その勢いも長くは続きませんでした。プロジェクトも終盤に差し掛かり、さあこれからという時、自惚れた出世欲の塊で、完全に自分を見失っていた私は、ある出来事をきっかけに窓際部門に飛ばされました。仕事は見事に無くなり、他部署とは壁を隔てた個室で一日を過ごし、定時退社という不遇の日々が続きました。自業自得とはこのことです。
自分のライフスタイルを取り戻す
ただこの時を境に、それまで家庭を顧みず、仕事一辺倒だった生活スタイルを改め、共働きの妻と力を合わせ、家事や子供の学校行事など積極的に参加し、家族と過ごす時間を大切にするようになりました。その意味では自分と向き合う、いいきっかけとなりました。あのまま人の意見に一切耳を傾けず、力まかせに突っ走っていたらどうなっていたことか。おそらく家族を失い、身体を壊し、ボロボロの人生を辿っていたに違いありません。今も想像するだけでぞっとします。
その後、約1年が経過した頃だったでしょうか、先輩社員から新たなプロジェクトに声がかかり、仕事面で徐々にやる気が感じられる様になりました。プロジェクトは2004年から2年ほど続き、2007年、経営企画室へ異動しました。その頃には上司と後輩に恵まれ、仕事もプライベートも順調の毎日でした。47歳でフルマラソンを始めたのも丁度この頃になります。
第2の転機となった震災、100周年、そしてコロナ
しかし、2011年3月11日、東北地方が東日本大震災に見舞われました。被災地にはニチモウの拠点と取引先が数多くあり、会社は復興に全力を注ぎ、私も自分ができる範囲で現地へ何度も足を運び、微力ながら支援に携わりました。それは震災から数ヶ月後、監査部門へ異動となった後も暫く続きました。それと同時に、震災を機に普及が加速したSNS上で、水産関係者をはじめ、それまで知り合うことのなかった、様々な分野の方たちとの交流が始まりました。多くの方との親睦は今も続いています。これが後々私の進路に多大な影響を与えることになりました。
2015年、総務チームに異動し、2019年会社創立100周年事業に広報担当として携わりました。”ニチモウマン”として集大成とも言える大仕事でした。最後までやり遂げ達成感を感じ、一生の思い出を得た一方、全てを出し切ったことで燃え尽き症候群となり、これからどうするかを考えようというときに突然コロナが襲ってきたのです。
最後の異動で第二の人生の種をみつけ、起業を選ぶ
それは2年後の2022年に60歳、定年退職を目前に控え、第二の人生をどうする?という時期でもありました。
100周年事業が私の最後の仕事になるだろう、あとは残り少ない社員生活を大切にしたい、と思ったときにまさかのコロナ禍で、会社に行かない日々が増えたのです。
当初は65歳まで再雇用を希望しようかと思いましたが、リモートワークで自宅にいながら電話でのやり取り、オンライン会議で容易にアポイントメントを取れるようになると、必ずしも出社する必然性を感じなくなってきました。「ひとりでもなんとかできるかも」と思っていた時に、思いもかけぬ異動で営業部門に戻ることになりました。与えられたミッションは「営業部隊のサポート」で、これは会社が最後に用意してくれた花道だと、何か運命的なものを強く感じました。
異動後はありがたいことに新たな出会いがいくつも生まれました。特に担当した海洋部門は、会社のコア事業で創業からの伝統を受け継いでいる部署。そこで新規事業を考えるミッションを与えられ、将来芽の出る可能性があるかもしれない種はいくつも見つかりました。でも、私がそれを会社で遂行するにはあまりにも時間は足りないし、再雇用でそれができるかわからないし難しい。それなら会社には残らずに、自分で新しい事業を考えようと思い、起業しよう! と腹が決まったのです。
最先端の技術を取り入れ、水産業をもっと持続可能な産業にしたい
どの業界にも言えることですが、KKD(経験、勘、度胸)という暗黙知が存在します。それを誰もが理解しやすく形式知化するため、具体的には「スマート水産業」、最先端のデジタル技術やその他異分野の要素を取り入れることで、水産業を成長させ持続可能な産業にしたいと思っています。
例えば、これからは日本国内で陸上養殖が益々盛んになると思いますが、養殖に関しては、飼料である魚粉の供給不足が懸念されています。それなら昆虫を活用してみたらどうか。ITやIOT、AIを使った小規模の陸上養殖を増やすことも可能性があると思っています。また、私の住む平塚で地元の漁業協同組合に協力して、未利用魚(市場に出しても値段がつかない魚)の活用や普及、新たな加工品の商品開発などを考えています。会社員になってからは縁遠くなっていたJICAとも再び連携できる様、開発途上国における水産業関連のビジネスに応募。これもうまくいけば事業化できるかもしれません。このように考えると、私が水産業に貢献できることは幾つかあると思っています。
3つのターニングポイント
今後のわたし
経済的にきちんとやっていけるような事業を構築しながら、将来を担う次世代の人たちが興味を持ち、異なる業界から、どんどん水産業に新規参入して貰えるような、プラットフォームづくりを目指しています。それを実現することで、地元平塚、周辺地域から日本全国に至るまで、さらに海外、特に開発途上国の課題解決に貢献したいと考えています。そのためには、若い人たちに託すバトンというか、松明のようなものを示さないといけないと思っていて、多少は奇を衒っていても、チャレンジは絶対に必要です。平塚を起点に、相模湾で獲れた神奈川県のしらすと福岡の明太子の特産名産品コラボ商品。金融工学と水産業を結びつけ、魚価の安定化を目指す異業種ベンチャー企業とのシステム共同開発。日本ではまだ何処も取り組んでいない海外魚種の陸上養殖。先の震災後からSNSをきっかけに長く交流を続けている寿司職人さんと、寿司の魅力と可能性を拡げる活動を目的とした業務提携など。私にはまだまだやりたいこと、やれること、やらなければならないことがたくさんあると思っています。
編集部より
森丘さんとは同世代なので、彼が辿っていた時代の空気は私もよくわかる。
ケニアから帰国してバブル景気の中で気が大きくなったり、挫折したりするのはあの当時、誰もが経験したことだと思う。
だが、そこで屈せず新しい道に何度も挑戦されたことが、いまの森丘さんの素地を作っている。
大学時代に「水産」という軸を見つけ、そこからぶれず、最後の異動でそれを昇華させるタネをみつけられた。人生は何度も生きることができるという言葉の典型のような生き方だと思う。
次のじぶんProject 編集アドバイザー 柏原光太郎